鎮西村の神社の歴史
神杜と祭神
古来わが国民は「日本国は神国なり。」の信念を持ち、神杜は国家神道として尊崇された。
太平洋戦争終了後は、国家神道は神社神道にかわり、神社は一宗教として位置づけられた。
このとはわが国の歴史における一大変化である。
転換期の概略を記して前書きとする。
義務教育においては、教科書から国家神道的色彩をもつものが一掃された。
行事においても四大節の、教育に関する勅語の奉読、祭興に代表児童の参拝、教師の指揮による学童の一斉拝礼学校設置区域に鎮座する産神の宮日の休業など,一切が廃止された。
その維持管理については、物心ともに、国家、町村の庇護が禁止され、関係者の自主的な意志によることとなった。
現在は前の氏子が信者に変わっている。此の現象がマンネリズム的な一時現象として衰退をたどるか、自然発生的に昔のようになるかは、時勢の推移と信者の自主性によって左右されよう。
具体的には、祭典行事は、信者にかわった旧氏子たちが、従来どおり実施しているようであり、また維持費も負担している。
清掃維持は数人割りあて制、区域、全員など種々な方法によってなされている。
(鎮西村誌より抜粋)
鎮西村の神社
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地区名
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神社名
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住 所
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潤野
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寶満宮
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飯塚市潤野390
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花瀬
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寶満宮
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飯塚市花瀬字宮山344番
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大日寺
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飯塚市大日寺字宮850番
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蓮台寺
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飯塚市蓮台寺字宮ノ前375番
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建花寺
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飯塚市建花寺字堂園566番
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八木山
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老松神社
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飯塚市八木山2138番
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明星寺
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飯塚市明星寺492番
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鎮西村にある神社
○ 潤野宝満宮
1、鎮座地 鎮西村大字潤野字宮山
2、祭 神 玉依姫命、天照皇大神、磐余彦命、葺不合命、火火出見命、豊玉姫命
3、察 日 9月9日
4、杜 殿 (イ)神殿、横2間1尺8寸、入1間4尺5寸
(ロ)渡殿、横6尺6寸、入1丈2尺
(ハ)拝殿、横2間1尺9寸2分、入2間1尺9寸2分
5、境 内 2,052坪
6、由 緒 福岡県地理全誌に「文明九年の棟札に奉再興満明神上檀一字御意趣者神徳益新国家安全特当所繁昌万快民楽善願成就而巳本願主筑紫民野田大膳亮藤原朝臣経久当所地頭武藤筑紫備中守藤原経勢文明九丁酉年(1477)二月十五日大宮司貞次諸神官貞吉等、神輿の飾に用ひし銅製流金の鳳の胴部(銘に勝屋次郎左衛門願主九月九日とあり社家にて長享年中と云へり、長享は後土御門院の年号なり、勝屋氏は今鞍手郡下村に子孫あり)ありしが文化元年(1804)甲子に焼失す、(鳳は腹のみあり)、探題行踊と云事あり,(真丸踊共云ふ)毎年八月新穀を供へ村民群参して是を行ふ、西京の輸踊とも云ものに同じ………」とある。
また太宰管内志に「筑前国穂波郡宝満宮者、振古乏名杜也、文明年中筑紫氏再造之、其時所揚之棟札今尚有之、然年所久文字漫減将失其真、予蒙君命巡邑之日、祀官請改書乏以為副遂不得辞書以与乏、其間唯一二不可解者如臼書後之者勿疑之、元蔵庚午仲秋十四日貝原好古判」とあってこの宝満杜と言うのは穂波郡潤野村にある。またこの杜の神輿の鳳形の銘に「宝満大菩薩云々脇屋次郎左衛門願主」とあり、「文化元年十一月(1804)朔日炎上して悉く滅せり。」
と書いてある。現在の杜殿は昭和4年(1929)春吉日しゅん工式を行なったものである。
7.境内神杜
(イ)若八幡宮
祭神 品陀別命、息長足姫命、大鶴鵜命、由緒不詳例祭8月、建物横1間3尺、入1間3尺と(潤野青柳神官蔵神杜明細帳)にあるが現在は建物はない。
(口)天.満宮
祭神 菅原神 由緒不詳 例祭8月 建物 横5尺入1間(神殿左側の建物か)
(ハ)厳島神杜
祭神 市杵嶋姫命 由緒不詳 例祭11月11目.・石祠
(ニ)飯祖神杜
祭神 稚産霊神、埴夜須神 由緒 不詳 例祭8月 石祠
(ホ)甲子神杜
祭神 大国主命 由緒不詳 石祠
(へ)祇園杜
祭神 素蓋鳴命 潤野下区より境内にうつした。
○ 宝満宮
1、鎮座地 鎮西村大字花瀬字宮山
2、祭 神 玉依姫命、葺不合命、火火出見命。
3、祭 日 9月9日
4、杜殿
(イ)神殿 横6尺4寸、入5尺8寸
(口)渡殿 横7尺、入7尺
(ハ)拝殿 横 3間、入 3間
5、境 内 1,548坪
6、由緒 潤野村の本社から迎え祭る、昔の神殿の名が今も田字に神楽田として残っている。明治5年(1872)11月3日村杜に被定。
7.境内神杜
(イ)天満宮
祭 神 菅原神
由 緒 不詳 例祭 8月25日
建 物 横1間、入1間
(口〕高木神杜
祭 神 高御産巣神(潤野青柳神官蔵神杜明細帳)
杜 殿 横1間、入1間
境 内 81坪(遷杜前の広さ)
由 緒 不詳
本小杜は納骨堂と道を隔てた反対側の大行事さまとよばれていた杜の建物をうつしたもの。
祭 事 別記
○ 八幡宮
1.鎮座地 鎮西村大字大日寺字宮
2.祭 神 応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、武内宿弥、日本武命、天照大神,玉依姫命
3.祭 日 9月9日
4.社 殿 (イ) 神殿 横2間1尺、入1間4尺
(ロ) 渡殿 横2間、入1間
(ハ) 拝殿 横3間3尺、入2間1尺
5.境 内 1,340坪
6.由 緒 境内杜伊弊諾神杜の欄に詳記する。神饌所兼杜務所は明治44年(1911)3月17日建設、大正8年(1919)9月18日神饌幣帛供進神杜に指定された。
7.境内神杜
(イ)伊弊諾神杜 祭神 伊弊諾命 建物 木造, 横2間、入2間半「此杜もと妙見杜と称し、古来より鎮座ありて産神なりしが宗像氏の臣石松但馬此村に住し八幡宮を妙見杜の本社に立て、後世遂に産神とせり。
昔は神幸ありしと見て頓宮の趾本杜の東方6町許にあり松の元と云ふ、叉妙見田、三月田二月田など之字残れり、神領は秀吉公没収せらる。」と郡誌にある。里人もこのように語り伝えている。
(口)若宮八幡宮 祭神 仁徳天皇 由緒 不詳 建物 横5尺、入5尺と青柳氏蔵神杜明細帳にあるがこの杜と思われる建物は若八幡と名づけ応神天皇を祭ってある。
(ハ)老松神杜 祭神 菅原神、由緒 不詳、建物 横5尺、入5尺、昭和24年(1949)改築
(ニ)須賀神杜 祭神 素蓋為命、由緒 不詳、建物横5尺、入5尺、須佐神社と同一か?
(ホ)五穀神杜 祭神 保食神、由緒 不詳、建物横5尺、入5尺、昭和32年(1957)7月吉日、赤間百兵衛氏古稀祝賀記念のため現在の石祠を寄進された。
(へ)稲荷神杜 祭神 倉稲魂神、横5尺、入5尺、とあるが現在は石祠。
(ト)疫神杜 祭神 大巳貴命、昭和8年(1933)、ノケオより八幡宮にうつす、
(ノケオは八幡宮裏200mの高地)石祠
(チ)貴船神杜 祭龗神 高龗神、闇龗神、昭和8年(1933)、井戸用からうつす。石祠
(リ)大山神杜 祭神 大山祇命、昭和8年(1933)、大日寺内尾からうつす。石祠
大日寺地区はむかしから区民が分担し小杜の管理維持にあたっている。担当杜は当初の
信仰別によったものと思われる。現在も多少の異動はあるが、子孫によって受けつがれている。
古文書の一部を揚げれば 明治十六年二月■改訂(1883)
保長 岸田仁造在勤
字ノケ尾
疫神杜 梶原伴蔵、域丸次六、城丸末吉、城丸信吉
〔註〕八幡宮についてのすべての資料は赤間百兵衛氏(74才)からうけたものである。
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日本人は古来、豊かな自然の恵みに感謝し、四季折々の自然の中に、神々(御神威)を見出してきました。そして、私たちにも社会や家庭の中でそれぞれに役割分担があるように、神々にもそれぞれの役割(御神徳)があると考えてきたのです。
その中でも、出産の際に妊婦や赤ちやんを見守り、そして、お七夜が過ぎると帰ってゆくと考えられている神さまが産神さまです。 |
○ 天照皇大神杜
1、鎮座地 鎮西村'大字蓮台寺字宮前
2、祭 神 天照皇大神、瓊瓊杵命、猿田彦命(手力男命の間違いでは・・)
3、祭 日 9月9日
4、社 殿
(イ)神殿 横1間4尺、入1間3尺
(ロ)渡殿 横2間、入1間
(ハ)拝殿 横2間4尺、入2間3尺
5、境 内 360坪
6、由 緒 八額山(八面山とも云う)にある、八額山の峯八顆に分かれる。ゆえに八面神杜とも言う。由緒不詳,明治5年(1872)11月3日、村杜に被定される。
7.境内神杜
(イ〕貴船神社 祭神 高龗神・闇龗神・
建物 横1間、入5尺、
由緒 不詳杜中に諾神が合祀してある。
(口)山の神 巡手より境内にうつす。天神さまを合祠詳細不詳、建物 横1間、入5尺
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何れが元祖か天照皇大神・・
筑前風土記やその他の古文書によれば、池尻地区に天照皇大神が祭られ、本村地区には
八面神社が祭られています。八面神社の由来は、峰八面を有する八額山の麓に位置するところからその名がつけられたと記されています。処が今日の現状を見ると主客が入れ変わっています。池尻の天照皇大神宮が天照神社となり、本村の八面神社が天照皇大神宮と姿を変えているのです。天照神社の祭神は申すまでもなく天照皇大神を中心に手力雄命と万幡姫命の三柱が祭られています。天照皇大神宮と姿を変えた旧八面神社の祭神は瓊々杵尊が中心で、天照大神と猿田彦神の三柱が祭られています。
瓊々杵尊を主神として祭る八面神社が何故に天照皇大神宮となったのかその理由は分かりません。昭和三年の十一月に奉納された八面神社の鳥居に、初めて天照皇大神宮の名前が登場するのです。それ以前のものは八面宮の名が刻まれています。
昭和三年は昭和天皇が即位された御大典の年に当たり、その年の六月には池尻のわが家の水田で鎮西村の田植祭典が実施されました。そして秋には稲の刈取り行事が行われ、新米の一部が県当局を通じ皇室へ献上されました。皇居では十一月に大嘗祭が盛大に実施されました。
蓮台寺ではその大嘗祭を記念して八面神杜に大鳥居が奉納されました。その鳥居には天照皇大神宮の名が刻まれていました。この鳥居が池尻の天照神杜でなく、八面神社に奉納されたのは何故だろうか、不思議に思われてなりません。
私はその謎を解き明かしたいと思い、古文書の調査に取りかかりました。そして新しい発見をしたのでした。新しい発見とは天照神杜誕生のいきさつであります。
その資料によれば、蓮台寺の氏神は八面神社の方が古くからありました。
処が今から六百三十年の昔、正平十七年(南北朝時代)筑紫の探題北条氏経が菊池肥後守に攻められ、大日寺山で敗れました。①
その時の兵火で、十二月二日、八面神社は跡片もなく焼失したのでした。
その翌年の一月、八面神社の御神体が、近くの池尻山の大木の梢に引懸り、神鏡の如くあかあかと照り輝いたといいます。そこへ一人の翁が現われ、水浴して身を清め、その木の下に平伏して、天降り給え、天降り給え、と祈り続けたるに、御神体はひらひらと舞い降りて翁の袖に止りしといふ。村人ひとしくこの事実に感泣し、大木の下に仮殿を建立したといふ。これ即ち天照神社の誕生なり。
八面神社の跡地はその後百三十年も廃墟となっていたが、明応元年(五百年前)に再建されたといふ。池尻の天照神社は八面神社再建後もそのまま祭られ、以来六百三十年の歳月を数えています。その後寛保三年四月(二百四十九年前)に改築され、寛政三年十月(二百一年前)に幣殿が増築されました。
(村人の言い伝え(文書にしてあります。)・・・)
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筑 紫 探 題
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○ 桂郷神杜
1.鎮座地 鎮西村大字建花寺字堂園
2.祭 神 伊邪郡岐命,天照大神,品陀別命
3.祭 日 9月17日
4.杜 殿 (イ)神殿 横2間2尺,入1聞
(口)渡殿 横1問3尺,入1間2尺
(ハ)拝殿 横3間2尺,入1問
5.境 内 600坪
6.由 緒 不詳、明治5年(1872)11月3日、村杜に被定、大正9年(1920)5月27日供進神杜に被定せられる。
7.境内神杜
(イ)稲荷神杜 祭神 倉稲魂神、由緒 不詳、例祭3月10日、建物 方2尺、高さ1間
の石祠、明治38年(1905)l1月の刻字
(口)天満宮 祭神 菅原神、由緒 不詳、例祭2月24日、建物横1間、入1間3尺、
木造瓦葺
(ハ)琴比羅神杜 祭神 葦原醜男神、由緒 不詳、例祭8月9日、建物横2尺5寸、入1尺
8寸、石祠、天保11年の刻字がある
(二)杵築神杜祭神大国主神、由緒 不詳、例祭 11月29日、建物 方2尺、高さ1間、石祠
(ホ)直日神杜 祭神 神直日神・大直日神、由緒 不詳、例祭2月10日、方2尺、高さ1間、
石祠、側面に明治38年(1905)11月の刻字がある。
(へ)山の神 石祠は倒れている
(卜)祇園杜 祭神 スサノオ命、建物 方1.5間、木造瓦葺
○ 老松神杜
1,鎮座地 鎮西村大字八木山字中村
2,祭 神 大鷦鷯命、玉依姫命、菅原大神
3,祭 日 9月14日
4,杜殿 (イ)神殿 横2問、入2間
(口)渡殿 横2間,入2問
(ハ)拝殿 横5間,入3間
5、境 内 3,658坪
6、由 緒 郡誌に「創立年代詳ならず、此村古へ太宰府の神領なりし故に本社を爰に祭りたるなるべし、太宰府神杜寺主記録に天正六年(1578)十二月三日秋月種實の士卒杜檀を焼亡、種實恐怖而杜領悉返進期而造営杜檀、此時勾当房焼死満盛院の快□,昌宝坊の快俊二番の観慶右京等神体宝物を救持而、山伝大日寺村に至る、其後種実依招待夜須郡栗田村に構小杜、奉移治乱後宮作而広陵奉崇別紙有とあり。嘉永元年(1848)七月神殿、渡殿、拝殿再建す。万延元年(1860)春中村大庄屋並に触下庄屋中より太鼓を寄進せり、其鉗銘こ奉寄進中村大庄屋清水宅右衛門義一觸下三十三村庄屋中万延元年(1860)中春とある。」と記されている明 5年(1872)11月3日村杜に被定
7.境内神杜
(イ)貴布禰神杜 跡だけが口碑に残っている。
(口)須佐神杜 祭神 素 鳴命 由緒 不詳
(ハ)如公大明神 祭神 黒田如水公本杜御同殿に祭る。
(二)福神杜 祭神 倉稲魂神
○ 比叡神杜
1.鎮座地 鎮西村大字明星寺字宮の前
2.祭 神 大山津見命、久々迺知日命、国常立命、大物主命、菊理姫命、国狭槌命,
3.祭 日 9月25日
4.杜 殿
(イ)神殿 横2間、入2間、大正9年(1920)
2月14日改築許可す
(口)渡殿 横1間、入1間
(ハ)拝殿 横3間2尺、入2間
5.境内 210坪
6.由緒 不詳、明治5年(1872)l1月3日村社に被定、郡誌に「村杜に被定、村中に日吉田と云る田字あり、祭田なるべしと。」と書いてある。
7.境内神杜
(イ) 須佐神杜 祭神 素蓋鳴命、由諸 不詳、祭日6月15日、建物横1間1尺・入1間1尺と「潤野青柳神官蔵神杜明細帳」にあるがいずれの杜であるか明らかでない。`
(口) 境内に三杜があるが、里人のことばによると。前方の杜(祇園杜)の祭典は10月10日、御神体はコウカの木で作ってあるので明星寺の地ではこの木で履き物を作ると神罰を受けるといわれている。
(ハ) 中の杜「牛の神」といわれる、社名不明、里人は「きのよね様」とよんでいる。
