中世仏教文化(鎮西村誌より)
明星寺と聖光上人
聖光上人と明星寺の関係については上人の伝記に記されているとおりである。
その後衰退しそゆく明星寺の再興に力を尽したことは、彼と明星寺との関係をさらに深めてついには聖光上人の明星寺の感を強くするに至った。
確かに明星寺それ自体の資料となるものはきわめて乏しく、早く廃寺となった明星寺に関して幾っかの文献にその寺旧蹟としてであつたようである。
虚空蔵堂の看板
本堂への上り口
いずれにしても虚空蔵堂を語るすべもなく、わずかに所在を示すに過ぎない廃寺が全国でも数多いことを思えば、なんとしても明星寺にとっては切りはなすことのできない条件とも考えられるようである。
聖光上人(鎮西上人)
「此寺中比頽して修理する人なかりしに、聖光上人是をなげき再興を志し……(筑前国続風土記)」と益軒も述べているように、聖光上人以前にすでに彼が学業を志して入山した明星寺があり、そのころすでに衰運におもむいていたことは諸書にも明白である。
そのことは彼以前に明星寺開基の年代がさかのぼることを教えているものである。さらにまた彼以後に廃絶するまで幾ばくかの歳月を重ね存続したことも容易に推察されるのである。
以下、聖光上人との年代を中心として、その前後の年代を推論して明星寺の縁記を組立ててみよう。
創建の年代
明星寺開基の年代について伝えるものもあるがいずれもそのまま信ずるには多少擬問の余地があるように思われる。
すでに益軒も「開基の年代明ならず」といっているように寺院創建の年代を確証するものとしては残念ながら記録では見当らないようである。
しかしながら創建の年代推定には全くそのすべがないわけでもない。むしろ次に揚げる諸点はきわめて有力な手がかりとなるように思われる。
1、寺院の立地条件と伽藍配置
2、聖光上人,明星寺常寂の門に学んだのは治承2年のことである
3、上人と叡山との関係
寺院の立地条件とは土地選定のことである。
明星寺北谷部落を登りつめた所でさらに百階段を数える石段を登る地形は明らかに山岳仏教の定石であろう。
さらにその伽藍配置の点よりしても平安時代になって流行した山岳仏教といわれるものの特質をじゆうぶん示していると思われる。
すなわち龍王山東麓の峯や谷に堂塔を配した方式はまさしく平安仏教の典型である。
次に聖光上人入山の年が年譜に伝えるところによれば治承2年となっているが、治承はいうまでもなく平安後期の年号である。
しかもそのころには常寂の住んだ明星寺が存在したことは明らかである。これらをあわせ考えるとき筑前国続風土記に「天台宗なり」といっているのも真実を伝えているようである。以上の諸点を総合するとき、もちろん文献によったじゆうぶんなものとはいえないが、明星寺創建の年代を平安時代に推定することには大きな誤りはないように思われる。
また同時に奈良寺院としての建立説ももちろん考えられないことである。
開基の人が誰であるか知るべくもないが、いずれにしても天台、真言の二宗が盛んであった平安期に平安仏教の格好の場所として北谷の奥深い幽谷が選ばれたものであろう。
しかも聖光上人が叡山との間を往来したことからして恐らくは益軒のいうように天台系の寺院とみて誤りないものと思われる。
(参考資料)
筑前風土記より
明星寺
明星寺村にあり、平寿山妙覚院と号す。天台宗也。開基の時代分明ならず、比叡山の末寺にして
虚空蔵を本尊とす。
此寺中比頽破して修理する人なかりし聖光上人 是をなげき興を志ざし大日寺山に入り柱を切りとり終に三層の塔を立てける、されば昔は大寺にて堂舎数多く,いといかめしき伽藍なりしとかや。
今は只虚空蔵堂、地蔵堂、薬師堂のみ残れり。
此外阿彌陀堂、観音堂、鐘棲など皆圃となりて、ただその名のみ残りぬ。
湯屋池と云う小池の形ある所あり。
今竹林しげりて池の形もさだかならず、中に小島ありて石仏を安置しぬ。此池に明星の光あやしく映せし故に寺号とせしと云い伝えたり。
叉むかしは此寺に十二坊ありしが今は圃となり、或は民宅となりて其の名のみ残れり、十二坊は本坊是則座坊なり。妙覚坊、龍蔵坊、俊光坊、定寿坊、楠田坊、花坊、横谷坊、峰坊、十一坊、谷坊,春海坊なり。此十二坊各当村の田地と以て其の産とせしと世。
今此所を見るに所々に古跡のこりて、むかしの繁栄思いやられ待る。
虚空蔵堂の前には桜の大木数株あり,凡そこの寺は山上なれば堂前の眺望をよろこばしむ、堂を下るに
石階百八段あり,鐘の声を表せりという。
此寺ありし故、今も村の名を明星寺と云、此村の境内日数が原と云う所に松樹あり是は聖光上人、豊前彦山に詣せし度ごとに植えし松なる故に日数が原と云へり。
(筑前国続風土記巻之十二)
聖光上人との関係
このようにしてすでに平安時代に開基された明星寺には彼以前にも秀れた学僧が相次いで在住したようである。
彼が師事したと伝えられる常寂法師については詳らかでないが,後年彼が明星寺再興に尽した動機も恩師常寂と無関係とは考えられない。
かって青年時代を過ごした法縁の寺であったことはいうまでもないが、恩師常寂に対する感恩報謝の念が彼の決心を固めた動機となったとも一応考えられることであろう。
かれこれ思いめぐらすとき、上人を教えた常寂も、また非凡の学僧であったに違いない。
常寂こそは明星寺初期のころを代表する学僧であり、後期に在住してこの地に没した法橋琳弁とともに明星寺学問僧の代表である。
このような空気の中で育てられた青年僧たちの中からは幾多の数知れぬ俊秀が巣立っていったことであろう。
筑後善導寺を開き法然の高弟として、後年浄土宗弗二祖として鎮西国師の称号を授けられた聖光房弁長を育てた寺院であることも重要であろうが,それと同時に名こそ明らかに伝えられてはいないけれども鎮西仏教の興隆に尽した数多くの人材を輩出したことも忘れてはなせつな点である。
そのへんに明星寺の天台道場としての面目が躍如として現われているようである。
それにしても、別記する鎮西上人略歴によれば彼が明星寺再興を思い立ったのは、頼朝が将軍宣下を受けた前年の建久2年(1191)のことである。
鎌倉初期の建久のころには早くも衰運に傾いていたことは地方寺院の宿命とはいえ,明星寺の寺運にもまたひとかたならぬ苦難があったことは推察できるようである。
立ったのは、頼朝が将軍宣下を受けた前年の建久2年(1191)のことである。
鎌倉初期の建久のころには早くも衰運に傾いていたことは地方寺院の宿命とはいえ、明星寺の寺運にもまたひとかたならぬ苦難があったことは推察できるようである。
(参考資料)
聖光上人(鎮西上人・聖光房弁長)略歴
年次
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西暦
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年齢
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事暦
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応保
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2
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1162
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1
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筑前国香月庄楠橋邑(北九州市八幡西区香月町)に生まる。
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仁安
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3
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1168
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7
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出家して菩提寺(嘉穂郡鎮西村)妙法の室に入る。
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嘉応
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2
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1170
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9
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明星寺にて剃髪す。
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建久
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4
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1193
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32
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舎弟三明房の死を見て無常をさとり、往生業を修す。
また衆徒の請により明星寺に住し、廃塔の復興にあたる。 |
8
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1197
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36
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3月 明星寺の新塔の本尊を迎えるために上洛す。
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7月 仏像成り筑後に帰り、本尊を安置す。
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建暦
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2
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1212
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51
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英彦山にて別時念仏を修し、善導の来現を感得す。
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暦仁
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1
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1238
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77
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2月 寂す。
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文政
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10
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1827
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滅後
600 |
六百回遠忌にあたり、光格天皇より大紹正宗国師の諡号を受く。
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(以上この略年譜は藤本了泰篇『浄土宗大年表』による)
明星寺の廃絶
仏教布教のうえに大きな貢献をなしとげながら寺院経営の困難に堪えてきた明星寺がはたしていつころまで存続したかは、これまた明確には伝えていないようである。
この点についても信頼するにたる記録はないが、現存する資料として法橋琳弁の墓碑はきわめて貴重な価値をもつものである。
すなわち、81才で没した琳弁はこれまたいかなる人物であるか明白にすることはできないが、彼が法橋琳弁と呼ばれ、今日その墓碑を残していとることからして少なくとも一山衆徒の中でも凡庸の者とは考えられない。
あるいは彼の年代における明星寺一山の学頭とも称すべき地位を占めていた者であつたかも知れない。前にも述べたように常寂が初期を代表する人物であれば、琳弁は鎌倉後期の明星寺を代表する重要な存在であったともいえよう。
しかも碑文によれば彼の没年は鎌倉も末期に近い元享2年2月2日と刻んであることから、
元享2年頃(鎌倉末期)までは明星寺が存在していたものとみて間違いはない。
元享2年まで存在したとして平安末期から鎌倉末期までのおよそ150年間の歳月を重ねてきたことになる。
ここまでは確かに存続したことを認め得るがその後はたして何時ころまで続いたか、そしてどのような事情のもとに廃絶したか、その点全く不明というほかはない。
江戸時代に至っては今日の現状と全く同じ程度に荒廃して、わずかに面影をしのぶに過ぎないありさまであったことは筑前国続風土記のとおりである。
そのよな状態になったのはいつのころからであろうか。これからは全く推論に過ぎないが、現在虚空蔵堂の前庭にたてられている赤間富次郎の碑文にもあるように、この地方一帯を荒廃と化した天正年間の兵災に堂塔伽藍を一朝にして焼失して、再び復興することがなかったとみることも意外に真実を語っているのかも知れない。
もし天正年間をもって明星寺廃絶の時期と想定するならば、平安末期以来およそ400年におよぶ明星寺の存続が推定されることになる。明星寺終末の時期をいつごろとするかについては、これ以上確かな資料となるものがみあたらないようである。




