鎮西国師とは・・
聖光坊弁長
(鎮西国師(上人)・聖光上人)一一六二(応報二)~一二三八(暦仁一)

鎮西上人略歴
一、応保二年(一一六二) 筑前の国、香月の吉祥寺に生れる。
二、仁安三年(l一六八) 七才の時,嘉穂郡鎮西村の大日寺の妙法禅師の室に入り学問を受ける。
三、嘉応二年(一一七〇) 剃度の式をあげ,聖光房弁長と名のる。(九歳)
四、承安五年(一一七五) 香月庄の白岩寺に帰る。(一四歳)
五、治承二年(一一七八) 再び鎮西村明星寺で常寂法師に師事する。(一七歳)
六、寿永二卸(一一八三) 叡山に登り観叡法僑の門に入る。(二十二歳)
七、建久元年(一一九〇) 鎮西村明星寺に帰る。(二十九歳)
八、建久二年(一一九一) 油山の学頭となる。明星寺五重塔再建の議おこる,
再建の勧進を行なう。(三十歳)
再建の勧進を行なう。(三十歳)
九、建久八年(一一九七) 五重塔が新装麗しく明星寺の境内に聳える。
五重塔本尊を迎えるため上洛する。
法然上人に会い師と仰ぐに至る。
五重塔本尊を迎え大法会を行なう。(三十六歳)
十、建久九年(一一九八) 四国路の教化を行なう。(三七歳)
十一、正治元年(一一九九) 再度上洛して法然上人に師事する。(三八歳)
土御門天皇より鎮西禅師聖光上人
大和筒と禅師号を賜わる。
十二、元久元年(一二〇四) 九州に帰り浄土の布教をする。(四三歳)
以来三五年間、善導寺を中心に東奔西走、席温まる暇もなく伝導
教化に専念しその範囲は筑後・筑豊・肥後におよび四十八寺の
寺院建設をする。
教化に専念しその範囲は筑後・筑豊・肥後におよび四十八寺の
寺院建設をする。
十三、嘉禎四年(一二三八)
正月病気となり、同二月二十九日七十七才にて入減(善導寺にて)
一四、文政十年(一二七八) 仁孝天皇より大紹正宗国師と国師号を追贈される。
(青柳英珊著 鎮西上人)
鎮西上人縁の地(地名の起こり)
今に残る飯塚・木屋ノ瀬の地名の由来
五重の塔ができ上ったので近郷の善男善女がお祝いのご飯を持って参り、食べもしたが集た
ご飯の白い山はいっこうに滅らずついにご飯の塚(飯塚)ができた。
しかし、現在では甍は無く、貝原益軒の筑前国風土記に伝わるのみです。
これが飯塚のおこりでそこを飯の山といっている。その場所が器運山太養院(飯塚市本町)であったが後今の地にうつた。
また京都から持ち帰った菩提樹の杖を立てていたのが芽を出して茂ったが、今北谷と南谷との間にある菩提樹である。
○ 飯塚村
上方より西南諸州往來の宿駅なり。
國中の郷里にて民家多き事、姪濱甘水につげり。
芦屋川の上なる故川舟多く、運漕の便よくして、海味もともしからず。富人も叉頗有て、にぎはへる町也。
此川は大隈川にはあらず。其源ば内野、山口、大分の谷々より出。秋松より飯塚を過、其下なる
片島にて大隈川と一になり。
驛の北に納祖八幡の宮あり。此所の産神也。
此所を飯塚と名付しは、當昔明星寺造営事終り、開堂供養の時、飯を多く炊しが、其余多くして、
此所に塚の如くつみける故、飯塚といふといへり。
今其塚残りて、國君行館の内居間の前にあり。此外にも此邑の内にて、先年飯の石と成りたるを掘出せし事有しとかや。
叉此村に大養院と云寺あり。
寺僧の云伝ふるは、明星寺営作の時、食吻をととのへし所に立し寺なる故に、大養院と號す。
曲山号を飯塚山と云。
此寺初は飯の塚の側にあり"國君の行館を作られし時、今の地に移せり。
此寺は如水公長政公朝鮮の軍に往来したまふ時、度々立より給ひしが、長政公筑前を給はり、
豊前中津より此國に入給ふ時も、亦此寺に窟居したまへり。
依て寺産十石を賜ふ。今にしかり。
慶長の比の住持功伝、山野田圃の事を知り、数量の事など才覚ある僧なる故、長政公國中田圃の廣狭を改め計りたまひし時、嘉摩穗波等検地の役人に功伝を加へらる。
秋月領などに功伝竿と云あり。如此なる故、名島福岡へも召れけり。
彼是の恩恵を仰て、後年長政公の影像をも安置す。
寺の門内に建石あり、三世僧斗南、一石一字の法華経をうづむしるしなり』此寺の本尊観音は行基の作と云。
(筑前国続風土記 巻之十二より抜粋)
○ 木屋ノ瀬(八幡市小屋ノ瀬)
そして帰郷し明星寺に五重の塔を再建するため全国行脚に出発し、建立の材木も毎日遠賀川を
のぼり・木材運びの人夫が休むたびに木材の山ができたので木屋ノ瀬(鞍手郡いまは八幡市)の之名がついた。
(明星寺の古老の話・・鎮西村誌より抜粋)
光妙・安養の二寺はある・・
○ 光妙寺(蓮台寺)
蓮台寺字本村にあって天照山という。本尊阿弥陀如来、本堂横四間、入四間、昔は法泉山と
号したといわれ、真宗本派西本願寺末寺である。
寺伝によると、開基慶円は肥後の国の剣工、同田貫厚信の余り得度して慶円と改めた。
当地に来て法泉山蓮台寺の再興を志したが、浄土教に刺激されて京都にのぼった。
時に慶安二年(一六四九)七月十一日、本願寺良如上人にえっして浄土真宗の宗義を修得し
光妙寺の寺号をたまわり、本尊と蓮如上人の御影を下付され、かえって現在の地天照山麓に一字を建立したということである。
たまたま昭和三十七年、境内に納骨堂建設の議が起こり墓地改葬のさい、慶円法師の火葬に付した骨壷が発見され、開基当時、三〇〇年前の面影をしのび恭しく納骨堂め階上に墓石とともに安置しねんごろに祭られた。十一世住職円の子孫で道狸と号したが、後に仏法に帰依し了の代
昭和三十七年(一九六二)中秋のことである。
(鎮西村誌より抜粋)
○ 安養院(建花寺)
建花寺字荒巻にあり、報土山と号し、本尊阿弥陀如来、本堂横五間、入五間、浄土宗鎮西派本願寺末寺である。
この寺は、昔、現在大日如来を祭ってある禅定寺の地にあって、仏教が隆昌であつたころの名残りといわれる。
安養院の沿革によると、人皇第四九代、光仁天皇の御宇宝亀二年(七七一)行基菩薩、この地に
錫を留められ、一宇を建立し、自ら三尺三寸の阿彌陀仏の立像彫刻して、安置したのが現本尊である。
その後・建久三年(一一九二)浄土宗第二相・鎮西国師により、法相宗を浄土宗に改め安養院と
改称された。
後天正九年(一五八一)九月中句・豊後大友義連(大友宗麟)の兵火に焼き尽くされた。
(鎮西村誌より抜粋)
お寺の衰退を招く出来事・・・
八木山村古戦場
上村に城が尾と云山有。南の高山龍王嶽につづけるひきき山也。
村民の云へるは、天正の比にや、立花の戸次氏の兵共、此所に取上りしを、秋月氏の軍勢來り責ける。
薩摩勢も秋月勢に助合て戦ひけるが、其時多くの人数討死せり。
其死骸を埋し所、城が尾の西に有。
千人塚と云、今按ずるに、天正九年十一月の比、豊後大友家の軍勢、筑後國生葉郡にうち出ける故、秋月種實上座郡に出張して対陣するよし、風聞有けるにより、立花の戸次道雪、岩屋の高橋紹運、両家の勢五千餘人を卒し、秋月勢を遮り分させんため、秋月領内に働き、飯塚片島の邊まで悉く放火すれ共、出合敵なければ、同月六日に引取んとす。
秋月方には、種實上座出陣の留守なれば、道雪紹運と平場にての合戦成難るべし。
只敵の引取時、山道のせばき切所、備のまはらぬ所に追懸て討べしと、兼て臼井、扇山、茶臼山、高の山、馬見などの城代共と、僉議し置たる子と事なれば、四五千人起りて、戸次高橋兩家の勢、引拂ひ行跡を追てぞ懸りける。
道雪紹運是を見て、すこしも敵にかまひなく、足輕共を後陣に立、遠矢に敵の付來るを防がせ、静々と引退く。秋月勢是を見て、急に討て競ひ懸る。
道雪紹運八木山の東の坂にて、先陣後陣一度にとつて返して突懸る。
秋月勢の旗下の士共、暫し支へて戦ひしが、終にこらへず引退くを、追詰て討程に、穂波郡土師と云所迄三里餘の間、一ども返し合せず。
道雲・紹運の手に首數二百三十打取、今は是迄也とて閑に引返す所に、秋月留守居の家老共比由を聞付、上野四郎右衛門、坂田市之丞 豊前城井・長野、上原が勢、上座出陣に催され、只今秋月に着陣したるを引率して、五千餘人臼井坂を打下し、屋山原より横合にぞ懸りける。
是を見て最前退散せし秋月勢ども力を得、一に成合て、都合八干八百餘人急に追懸たり。
道雪、紹運良將なりといへ共、今朝よりの合戦に人馬共につかれたり。秋月方はあら手にて、しかも大勢成ければ、返し含て戦ん様もなく、土井を下りに引退く。秋月勢は勝に乗て、引おくれたる敵共を追詰々々、三百餘人討取けり。
上野坂田は種實に従て、多年軍功ある者共なれば、敵の返すべき廣みにては、遠矢に鐡砲を打懸、閑に追ひ、敵の返し難き切所にては、関を作り懸、追詰々々討程に、さしもの道雪、紹運一度も終に取て返さず。され共さすがの良將なれば、糟屋郡へ難なく引取れける。
かゝりければ、秋月勢も今は是まで也とて、八木山より引返し、追討にしたる首四百除八木山村の東の嶺に切懸て、秋月に歸りけるとぞ聞えし。
右にいへる城が尾千人塚なども此時の事にや。
(筑前国続、風土記 巻之十二)
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