2013年5月19日日曜日

旧・鎮西村の教育の概観・学制配布前の教育


 概観

鎮西村の教育を語るとき、過去の歴史の上に燦然と輝く鎮西上人ならびに貝原益軒の偉業を忘れることはできない。



◎ 鎮西上人は仁安3年(l168)7才のとき大日寺の僧房菩提寺に来て妙法法師に付いて学んだ。14才のとき観世音寺で得度受戒(僧になること)し、治承2(l178)17才のとき明星寺の常寂法師について修業すること5ヵ年、その後上洛して此叡山で仏教の奥義を学ぶこと7年後、法然上人に師事、ついには浄土宗鎮西派の元祖となった高僧である。



◎ 貝原益軒は、寛永14(1637)7才のとき。福岡から八木山の地に移り往んで11才までここで学問をした。静寂な龍王山の麓ではじめて学問に興味を持ち,三体詩・平家物語・保元物語・太平記などを読んだ。後にわが国でも有名な大儒者となり沢山の書物を書いた。

遠い昔にこの二人の高僧と学者を育てた鎮西村の誇りは、今もなお語りつがれて村に住む人脳裏に深くぎざみこまれている。



なかでも八木山の部落では昭和5年に益軒の住居の跡に記念碑を建ててその偉業をしのんでいる、そのためか八木山の人々は、特に教育に関心が深く、山村の片田舎には珍しい立派な校舎も区民の寄贈によって建てられたものである。

また戸数140戸の小さな部落から現在までに博士号をとった向学者が3人も出ている。

このことは直接には貝原益軒とは何らの関係もないように思われるが,
やはり郷土が育てた先賢の偉業をしのび,教育に関心が深かったためではなかろうか。教育は・宗教や政浩と密接な関連がある。

村に寺のつく部落の多いことは、その昔の仏教隆盛の名残りであるが、この仏教文化による教育が盛んに行なわれたことと思われる。

戦国時代に総ては荒廃に帰し、当時の文化遺産は何も残っていない。

くだつて徳川慕府の中央集権的封建制度が確立し、天下が太平になったころから百姓も手習いをする余裕ができ,各所に寺子屋がはじめられたようである。

しかし村の寺子屋教育に関する資料は乏しいので,古老の記憶と言い伝えを参考にして書くことにし、明治5年の額制発布以後の教育の変遷については各小中学校の沿革史を参考にして述べることにする。

学制発布前の教育

寺小屋教育

寺院がおもに子供の勉強の場所てあったから寺子屋の名が生れた。鎌倉時代のころからである。生徒は寺子といい入学することを登山といった。
それが江戸時代に寺子をとる家を寺子屋というようになり、師匠も僧侶のほかに浪人・神官・医者などの広範囲にわたった。

寺子屋教育の初めは読み書きだけで、後に算術(珠算を主とする)を加えたものものであった。

教科書は実語教、童子教のような教訓、家庭往来をはじめ百姓、商売、消息往来のような杜会一般常識の入門書、または模範文例が最も多く用いられた。中には高級な論語・大学・申庸などの漢籍を用いたところもあつたようである。

女子にはそのほかに女大学や裁縫を課したところもあつたが、農村では女子の生徒は少なかった。

指導法は、同じていどの学力ぐらいの者数名が師匠の前に座って習う個別教授や、年長者(兄弟子)が指導する「友教え」が行なわれ、全般的に暗誦を重んずる「読書百遍意白ら通ず」の方法がとられた。

寺子屋教育の特色は、教科は比較的に簡単であったが、師弟の密接な接触による訓育が重視された。長幼の序、師弟の礼譲など日常の礼儀作法の「躾け」は非常に厳格であった。
寺子屋こ入る子供は大体8・9才ごろからで、全体の課程を学習するには4,5年以上もかかり家業の手伝いなどのため全過程を修了する者はきわめて少なかった。

入学するときは入門と称して束修(入門科)に酒の肴をそえて師匠におくり、同門の子供たちには仲間入りとして菓子などを配ることもあった、月謝は毎月米1升程度の所が多かった。そして正月は鏡餅一重、五節句には時季の物を贈るのが慣わしであった。

以上のように庶民の中に生れ庶民の力で育成された寺子屋教育は、施設や教投の点では幼稚であつたがその本質は今日考える初等教育のねらいに合致するもので、日本における初等教育の先駆けである。

明治5年に学制が配布され小学校が設けられたので寺子屋は閉鎖されたが、教育の目的を果たしえる教師が少なく、施設も不充分であったので寺子屋を利用したところも多かつた。この意味で寺子屋は明治以後における小学校教育発展の基礎となったものである。

村の寺小屋

寺子屋に関する資料は村にはきわめて少ないが蓮台寺小学校の沿革史によると、「各手習所の教科は主として読方を加味した習字であって、人名付・村名付・那名付、国名付、商売往来、単語編、実語教等を課し、各児童は手習い双紙数巻を持参してこれで手習いをした。

紙が湿つたときは舎外に持出して乾かし、その間休息し乾けぱまた手習いをしていた。
また毎日の終りに謡を教えた所もあつた。」と記してある。

下村内にあった各手習所について記録や古老のごとばなどを参名にして述べる。

大目寺手習所

大日寺上付の庄屋赤間儀七郎は慶応(1865年ごろ)から明治初年(l875年ごろ)まで自宅で手習い師匠をした。また儀七郎の妹シゲも師匠をしたという。

潤野手習所

潤野の神官青柳貞延は自宅て手習い師匠をした。(学制発布後潤野小学校の教師となり自宅を仮校舎とした。)

建花寺手習所

建花寺本村で弘化(1840)ごろから村瀬源次郎が自宅で手習い師匠をしていた。その子藤助(曾吉と改名)も文久年中(1860)ごろから明治初年(1875)ごろまで建花寺・蓮台寺の子弟を教育した。児童数は20名ぐらいであった。(現在尾辻の墓地に弟子が建てた石碑が残っている。)
安養院でも寺子屋を開いた時代もあったと伝えられている。

蓮台寺手習所 

光明寺六世僧芿は寛政2年(1790年)ころ光明寺で寺子屋を開いていた。  
村の庄屋中野半次郎は自宅で手習い師匠をしていた。



八木山においては藩政時代により明治7年ごろまで本村・鴻巣・久保尾で夜間手習いをしていたが師匠の氏名は不明である。

その他伊岐須の神官青柳は代々その氏子中の子弟を教育していたので花瀬・蓮台寺・建花寺の子弟で通学する者もあつた。吉柳対馬守死後文久2年(1862年)以後明治7年(1874年)までは安楽寺に花瀬、大日寺、蓮台寺の子弟で通学する者もあった。(郡誌)






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