神社のお話
大宰府神杜と大日寺村
嘉穂郡内には太宰府神杜の杜領と観世音寺の寺領とが相当に伸びてきていたようである。
郡、宝満の連山を境にして相隣接する地理的な関係からもその領地が郡内におよんだことは然考えられることであるが,特に地理的に近接する筑穂町、桂川町、碓井町から穂波町に拡っていてその一部は私たちの村にものびている。
太宰府天満官の杜務を支配した満盛院関係文書の中に,、大日寺と太宰府との関係を示す次のような記録が残っている。
郡、宝満の連山を境にして相隣接する地理的な関係からもその領地が郡内におよんだことは然考えられることであるが,特に地理的に近接する筑穂町、桂川町、碓井町から穂波町に拡っていてその一部は私たちの村にものびている。
太宰府天満官の杜務を支配した満盛院関係文書の中に,、大日寺と太宰府との関係を示す次のような記録が残っている。
太宰府天満宮宮師満盛院領之事
一、穂波郡内大日寺村之事 ・三十町
(県史1の下)
この記録は文永六年(1526)のものである。大日寺村を含む八カ所の寺領を記しているが、早良郡の戸栗、重富の二カ所に次ぐ大領である。
その他の五カ所はほとんど十町以下であることからみても大日寺村が室町時代においては太宰府天満宮領の内でも重要なものであったことがうかがわれる。
そのような関係から文永六年から七年後の天文二年(1533)には、九州に勢力を伸ばしてきた中国地方の大内氏と満盛院との間に大日寺領段ーのことで争いが起つている。
これらの記録から中世においては村内の一部が太宰府神杜の支配下にあったことが明らかである。
あるいは大日寺だけでなくて八木山にも太宰府天満宮の勢力がおよんでいたのではないかと思われる。
老松宮と天満宮とは太宰府神領の地に勧請される神杜であるが、大日寺が八幡宮境内に天満宮を祭っているように村内において八木山は老松宮を主祭し、さらに天満宮をあわせ祭っているのは因縁浅からぬ両者の関係を示しているようである。
天満宮, 老松杜勧請のことは筑穂町や桂川町一帯に明らかな事実であり、ともかくも中世における村の支配関係を知る一資料である。
八木山と太宰府との関係は老松神杜の条に杜伝として興味深い伝承を伝えているので参照されたし。
郡誌に「創立年代詳ならず、此村古へ太宰府の神領なりし故に本杜を舍に祭りたるなるべし、
太宰府神杜寺主記録に天正六年(1578)十二月三日秋月種實の士卒杜檀を焼亡、
種實恐怖而杜領悉返進期而造営杜檀、此時勾当房焼死満盛院の快口、昌宝坊の快俊二番の観慶右京等神体宝物を救持而、山伝大日寺村に至る,其後種実依招待夜須郡栗田村に構小杜,奉移治乱後宮作而広院奉崇
別紙有とあり。
嘉永元年(1848)七月神殿、渡殿、拝殿再建す。
万延元年(1860)春中村大庄屋並に触下庄屋中より太鼓を寄進せり、其銘に奉寄進中村大庄屋清水宅右衛門義一、参下三十三村庄屋中万延元年(1860)中春とある。」と記されている。
明治五年(1872)十一月三日村杜に被定。
更に古には、筑穂町にある大分八幡宮の歴史を知ったときは、嘉穂盆地の歴史は神代の世界に通じる歴史を持つのではないかと思ったしだいです。
大分八幡宮の由来
奈良時代の神亀3年(726年)に創建された。社伝によればこの神社がある場所は神功皇后が三韓征伐の帰途、一時逗留した地であるという。
『筥崎宮縁起』(石清水八幡宮記録)によれば、平安時代の延喜21年(921年)箱崎浜(現福岡市東区箱崎)への遷座の託宣があって、延長元年(923年)に遷座したのが筥崎宮の始まりであるとし、宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』にも筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」とあるが、筥崎宮へ遷座した後も九州五所別宮の第一社として篤く信仰されていた。
創建当時の社殿は現在地より後方の丘陵上にあったが、戦国時代に戦乱のため焼失。天正5年(1577年)に秋月種実が現在地に再建した。明治5年(1872年)郷社に列した。
例祭
毎年9月に行われる例祭(放生会)では、福岡県の無形民俗文化財に指定されている『大分の獅子舞』が行われる。この獅子舞は江戸時代の享保9年(1724年)に石清水八幡宮から伝わったとされ、土師の獅子舞(福岡県嘉穂郡桂川町)と並び福岡県下の獅子舞に影響を与えているといわれる。
京都から伝わったためか、囃子言葉や掛け声が京都弁のニュアンスによく似ているともいう。
我が村(建花寺)にも大分の獅子舞が伝承され、現在でも、有志によって保存会ができ継承しています。
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